梅雨の時期も明ければ、いよいよ本格的に夏がやってきますね。
青・水色・白のカラーが見た目にも涼しげで、夏の風物詩、おそばや素麺の盛り付けにも 活躍する小田陶器のさざなみシリーズをご紹介します。
当店でも初夏から秋口にかけて、特に人気のある商品です。
小田陶器は、1921年、美濃焼の産地、岐阜県瑞浪市に創業。以後約100年、この地にて白磁の器を作り続けています。
瑞浪市は、明治初期より欧米諸国に向けた洋食器を生産、輸出することで世界有数の白磁の産地として栄えてきました。
現在、日本国内で生産されている食器の5割以上が美濃焼です。現代の日本人の食卓に馴染みのある日常のうつわとして、日本三大焼き物となった美濃焼の歴史を紐解いてみましょう。
美濃焼の歴史① 平安時代~
岐阜県東部の瑞浪市周辺の焼き物の歴史は古く、平安時代(794~1185年)にまでさかのぼります。
古い書物にも「陶器調貢の国」と記される通り、当時から高貴な方々への貢ぎ物としての陶器づくりが盛んでありました。
美濃地方各地に多く当時の古窯跡が残されていることからも、その事をうかがい知ることができます。
美濃焼の歴史② 室町時代~
その後室町時代後期(1492~1569年)、ついに独自の「美濃焼」として確立される時を迎えます。
加藤左衛門尉景信が武蔵国(現在の埼玉県)より陶町大川に移り住み、大川窯を開窯。これが美濃焼の起源だとされています。
後世の、大川窯四代目羽柴与左衛門景度の作品をモデルにして作られた狛犬は、瑞浪市の名物になり、その巨大さからギネスブックにも登録される観光地に。
美濃焼の歴史③ 桃山時代~
織田信長や豊臣秀吉の桃山時代(1568〜1600年)、美濃焼の文化は興隆を極めます。
千利休や古田織部等による茶の湯の流行も後押しし、現代に残る様々な伝統技術が誕生。この時代に初めて、筆書きによる文様を付けることが可能になり、斬新なデザインが生み出されます。
初代景信から時を経て4代景慶の頃、織田信長の「朱印状」が与えられ、権力者の保護政策を受けて、美濃焼は基礎を築いていきました。
美濃焼の歴史④ 江戸時代~
一時代を築いたかに見えましたが、江戸時代(1603〜1868年)に入ると次第に衰退してしまいます。
茶の湯の後を受け継いだ小堀遠州のわび、さびの提唱によるテイストの違いと、幕府の質素倹約の政策により、美濃焼が「ぜいたく品」とみなされたことが一説にあるようです。
ですが、江戸中期に再び好機が訪れます。江戸の人口増加により、庶民の日常生活で使う食器に大量の需要がありました。以降は日常使いの食器の生産が中心となり、全国的に流通することとなったのです。
美濃焼の歴史⑤ 明治時代~現代
明治時代(1868〜1912年)に入ると、その規模は拡大してゆきます。明治維新の改革の波によって、制限が撤廃され、全国区への自由な営業が可能に。
また製品別分業制度を発展させることに成功し、より低コストでの生産を実現。
ちなみにこの分業制度の確立により現在でも隣り合う多治見市・土岐市・瑞浪市の3地域にて各地区ごとで職工技術が細分化されています。瑞浪市は「和・洋食器、ニューセラミック」の担当。
大正時代はますます機械化が進み、昭和初期にはその技術も進歩し、日常生活の食器に加え、高級品の需要も増えていきます。
そして現在、「メイドインジャパンの美濃焼」として海外からその品質と技術力が高く評価され、その存在は海を越えて世界に広がりを見せています。
こうしてみると、美濃焼の発展の歴史の裏に、その時代ごとの世の中の流れとニーズ、時流に対応すべく試行錯誤してきた人々の存在を感じずにはいられません。
現代の暮らしにあわせ進化し続ける
千年以上もの長い歴史の中、伝統技術を継承しつつも新たな技法、デザインを取り入れ続け進化してきた美濃焼。その多種多様さが最大の特徴であると言えます。
そして丈夫で使いやすく、日常生活に溶け込む親しみやすさは、なお現代においても人々から愛され続けています。
そんな美濃焼のメーカーのひとつである、小田陶器のさざなみシリーズ。
伝統的な「しのぎ」という技法を用いながら、現代の暮らしに馴染むモダンなデザインに仕上げています。
「さざなみ」の名前から連想させるような淡いブルーと白は、夏の食卓で、普段使い・おもてなし問わず活躍してくれます。